
前回の章では、パートナーに性的興奮をしないという「他責思考」こそが、セックスレス問題の根源であると仮説を提言した。
その結論に至ったのは、数年前、飲み屋の席で隣に座っていたオヤジが、「最近の若いもんはいいよな。見たくなったら検索一つかけりゃ簡単におっぱいにありつけるんだから」と発言したことだった。
「俺らの子供の頃はな、今みたいにオンナの裸を簡単には見れなかったから、車の窓から手を出してな、空気抵抗を使ってオンナのおっぱいの感触を想像したんだよ」とオヤジは青年時代を回想しながら手酌を続けた。オヤジ曰く、昔のオトコは想像力を働かせて、オンナの裸を楽しむことで、自身のモノを自身の力で解消させていたと言う。だからこそ、本物の身体に触れた瞬間、抑えきれないほどの興奮が湧き上がったらしい。
「今の若い人間は、生身の女では勃たない、って言うだろう。あれは、ある種の贅沢病だな」とオヤジの言葉に、その病の症状こそが、現代特有の性の不全「セックスレス」なのだと私は考えている。
この現代病に立ち向かうために、私たちが今すぐできる予防策が一つあるとすれば、それは「想像する力」を取り戻すことだろう。数年前に江戸時代の性の娯楽「春画」を見たときは、正直なところ「これで本当に興奮できたのか?」と目を疑った。オトコの下腹部は映し出されていないし、オンナの表情もなんだかパッとしない。当時FANZA会員だった私には、この刺激では膣袋が満たされない、と物足りなさを感じていた。
だが、当時のオンナたちは、この絵だけで想像を膨らませ、自身を慰めていたのだ。絵の続きは、自分の頭の中で補完し、ジョン・レノンもうなるほどのイマジンと構成力を駆使して、脳内でストーリーを展開していたと思うと、「負けてられるか!」と先人たちに対する悔しさが込み上げていた。
それから、AVや直接的な性的コンテンツを含んだ現代の娯楽を私は徹底して排除し、FANZAは解約し、スイーツと青年雑誌の誘惑に打ち勝つため、コンビニは避けて生きてみた。竿の見える性産者とは距離を置き、なるべく想像力の地産地消で済ませる努力をした。
AVのなかで大量生産される竿は、もはや工業製品のようだ。つややかな照明の下、整えられた動きで、無言のままオンナの内部を制圧していく。そこに想像の余地はない。外部の刺激で満たすのではなく、自分で性産力を上げて精力を耕し、生きることで、性活習慣を見直した。
スマホを閉じ、目を閉じる。いま隣の席に座る、少し気になるオトコは、どんなふうに声をかけ、どんな手つきで肌に触れ、どんな表情でハてるのか。そうすると、自分の内側から自然に性欲が沸き起こる。誰の力でもない。私のなかに、ちゃんと育ててきた耕された性が、息を吹き返す。今では「それらしい形状」を見ただけでも、内側がじんわりとする。それはそれで、生活に支障が出るのだが。
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