
80を超えるセフレがいる。正確な年齢は知らないが、「70代までは勃ちが良かった」と言い、「麻生太郎は大学の同期だった」と話していたので、だいたいの察しはつく。
私たちの性交に挿入はない。オトコは射精という行為を極端に嫌っていた。「射精するまでの時間が一番の快楽だ」「だったら射精しなければ、その快楽は永遠に続くのではないか」と、オトコにはそんな自論があった。だから私たちは、互いの性器を押し当てるだけの行為を続けている。
それを聞いた友人は「なにそれ、それの何が気持ちいいの?」と首をかしげた。確かに、強烈な快感はない。むしろ、ないからこそ長く関係が続けられるのだと思う。
射精を打ち上げ花火とするならば、射精以前の行為は焚き火に近い。有頂天の絶頂はないが、火を囲んでじんわりと身体の芯をあたためるような、持続する熱がある。
オトコは言った。「セックスっていうのは、脳を騙す作業なんだよ」と。夢精はまさにそれだろう。手を使わずに射精が起きるのは、脳が性的に満たされ、身体が勝手に反応している証拠だ。だからセックスとは、思考=快楽とも言えるのだろう。
想像するに、彼が育ったのは戦後まもない頃で、現代のようにスマホもゲームもない。情報も刺激も乏しく、空白を埋める手段は、自分の中に物語をつくる想像力しかなかった。
「乳首が感じないって言う男がいるけが、あれは感度が悪いんじゃなくて、想像力が足りないだけなんだよ」と、オトコは笑った。そんな彼と関係を持って、もう一年が経つ。けれどいまだ飽きることはない。むしろ、出会った頃よりも彼に対する関心は強くなっている。
挿入したその先に何があるのか。オトコの未解決な部分を想像することが、この関係の鮮度を保っている秘訣なのだと思う。一度だけ、挿入を試みたことがある。けれど年齢のこともあってハてるには至らなかった。(騎乗位でオトコを下に休ませたが、それでも築年数が経ち、耐震性は低いため行為の継続は難しかった)だが、不完全な性器を慈しむ時間もまた愛おしいと思えるのは、オトコと共に培ってきた想像力のおかげだろう。
そしてこれは、他の動物にはできない——人間にだけ許された、最大の娯楽なのだと思う。セックスのない関係はレスもなく、失うものがないので、もし私たちの関係が破綻した場合は「想像力の欠如」になるのだろう。そして、それの原因は他者ではなく、自信の精神性の貧しさにほかならない。