
アメリカ人のオトコと関係を持った時に、「日本人はモノが小さいから満足できないでしょ」と言われて、その言葉がうまくシュレッダー処理されずに大きな塊として記憶に残されている。
確かにオトコの物は業務用サイズで、容量も申し分なかった。「底上げ」「パッケージ詐欺」「かさ増し」など食品業界の不審が見受けられる中で、オトコのモノは見た目もその中身もお値段以上。だが、それがセックスの満足度を測るものではなく、これは、男と女とで大きな乖離があるように思われる。
モノのサイズや機能性が女の多幸感の指標になる、と解釈する男に対し、女が「もう一度、あの一夜を共にしたい」など思いを馳せる時は、男のモノが大物か否かなど、議論に上がることはない。女が男を評価する時は、「なんか、服の脱がせ方がエロかったんだよ」「ワードセンスか絶妙だった」「風呂から上がったら洋服が畳まれて気遣いがすごい」など、前戯や挿入どころか、肌に触れ合わない時間の方が得点の配分が高い。
女は「快楽だけで言えば、セックスよりセルフプレジャーの方が満足度は高い」と口を揃える。なぜなら、セックスというものは基本的に男が射精し、そこで初めてゴールテープが切られるからだ。女の場合は、オーガズムに達する前に、男の一人完走で幕が閉じてしまう。つまり、女のセックスに快楽だけを求めた場合、多くは成就することはできない。そのため、女がセックスする意味は快楽以上に、自分一人で解消できない心の空間を担保するためにもあるのだ。
それを象徴するのが、近年注目されている女性向け風俗だろう。女性用風俗は年々店舗数を増やしており、SNSでは体験談を綴った投稿がたびたび話題を呼んでいる。わたし自身、数年前に女性用風俗を利用したことがあるが、確かに素晴らしかった。風俗といっても女性用の場合は本番行為がない。施術前にはカウンセリングがあり、全身マッサージを受けたあと、ゆっくりと丁寧な前戯が始まる。希望すれば、玩具の使用やSMプレイといったオプションも選べるが、あくまでも前戯まで、がお約束。オトコのモノはベンチ外でフレフレと突起した肌着の上から声援を送るだけ。
それでも、本番行為以上の多幸感を得られたのは、身体を引き寄せられ、抱きしめられ、オンナとしての尊厳をセラピストが与えてくれたからだろう。パートナーとレスになり、行為が消滅したことが辛いと思っていたが、自分が女であるという性自認をオトコから受けられなかったことの方が辛かったのだ。手を握られ、服を脱がされ、抱きしめられる。そこにモノは介在しなくても、確かに快楽は存在した。
結婚して40年になる知人は、いまだにセックスレスになったことがないと言う。「でもね、挿入はしない。裸になって今日あった何気ない日常を取り上げて、それを二人で声に出して笑い合うのが楽しくてね」と。射精のない行為に「セックス」と名付けたとき、真の意味で人は初めてバージンを卒業するのだろう。それは、単に身体的な結びつき以上の、心のつながりや、互いの信頼を深める時間が生まれる瞬間だ。肉体の満足だけではなく、精神の充実感こそがセックスの本質であり、パートナーの心のオーガズムを満たせる人に、私は「床上手」の称号を与えたい。
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